これは私共の父の考え方に関係します。昔の建築業界には少々行儀の良くない方もいましたので、クリアーな関係で仕事をいただくのが難しかったそうです。今はもちろんそんなことないでしょうけど。
それで息子達にはその様なことをさせたくなかったので、戦後になって、自分の技術を生かし、コンクリート製品の製造、販売をしようと考えました。敗戦直後の食糧難の時代ですので父はまず、人々の食生活のお役に立ちたいと思って、カマド、流し台、コンクリートのゴミ箱とか、こういうものから始めました。当時はいずれも飛ぶように売れたそうです。
しかし、昭和20年代後半から30年代になって戦後の復興が本格的に始まってきますと、カマドはガス釜・電気釜等に変わってきました。また流し台はステンレス製が出てきましたので、だんだん売れなくなってきました。コンクリートのゴミ箱は昭和30年代になってもまだ売れましたが、昭和38年の東京オリンピックの時に交通の妨害になるからと道路から撤去するよう命令が出ましたので一気に売れなくなりました。
それで昭和39年頃から本格的に建築用空洞コンクリートブロックの製造、販売に転換しました。コンクリートブロックについては昭和20年代の後半に神戸の小野田セメントが生産しておりましたので、大変興味を持っておりました。しかし我々が製品の転換を迫られた昭和37年頃にブロック業界の市場調査をしますと、兵庫県内で月産約200万個(10cm換算)の需要があり、
約180社あまりのメーカーがありました。そしてその内の数十社を訪問して業界のことを色々教えていただきましたが、ほとんど例外なく、「シンドイばかりで売れることは売れるけど儲からない。何か他に良い仕事はないやろか」と将来に対する夢はありませんでした。しかし需要はあり、建築の基礎とか間仕切りとか目に見えない所で世の中のお役に立っている。また、アメリカの市場を調査しますと非常に有望であることがわかり、我々は決断しました。
現在の小野市に新たに1500坪の土地を購入して昭和40年5月に工場が完成いたしました。これが当社のコンクリートブロックメーカーとしての本格的なスタートとなります。兵庫県では最後発のメーカーです。
父に云われたことですが、人間の生活に役に立つものを作っていれば人類の生存する限り、需要は永遠にある。時代によって作るものは代わっていくけどなと。コンクリートブロックも建築用から舗装用、化粧用ブロックのように多彩に変化してきました。当初は建築用空洞ブロックが製品の10割を占めていました。
今は建築用ブロックは4割、舗装用が3割、化粧用は3割になっています。この比率は今後も変わって行くと思います。世の中の変化に伴って我々も変わっていかなアカン。それも日本だけやなしに、世界的な規模でね。
2代目の社長である前会長(佐伯博三)は「世界の住環境の改善と進展に寄与したい」という大きな夢を持っていました。私も同感ですが、もう少し身近なことから実現したいと思いまして「わが国の住環境の改善と進展に寄与したい。」という夢を持ったわけです。日本の住環境も昔に比べて良くなりました。それでもまだまだ当社も貢献できる余地があると思っております。 |